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私は随分歳をとってからはじめてツアー以外で海外に出かけて行きましたので、フィリピンに通った約一年半というのは刺激的でした。いろいろと失敗続きでしたが、今思うととそれなりに楽しかったです。本筋の事業については失敗は失敗で、本来はそのことを書くのが一番面白いとは思います。ただあまり詳しくは書けない事情があるのでとりあえず今回はフィリピンに行って体験したことなどを諸々書いていきたいと思います。
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セブ国際空港にての続きです。
私はセブで共同事業をしようとしていました。
そのパートナーはI氏といってわたしが古くから知ってる人間でしたが、自分が作り上げた会社を乗っ取られるなどして苦境に陥っておりましたので。
なんとか助けようと思って彼が企画した事業に出資したのでした。
私には夢がありまして、私のパートナーはそれを実現してくれると期待しました。
そのため、私には仲間がいましたが、彼らに出資をお願いしました。もちろん私の責任で、です。ですから私自身相当の覚悟で臨みました。
I 氏を成功させることで仲間にも報いたいと心から念願しました。
海外に拠点を持ちたいというのはもちろんそのパートナーの意向でした。私は土地感もなく、英語も全く話せませんでしたので、彼が仕事をやりやすくするというところに重点を置いて活動をしました。
セブの印象
彼の話によれば、フィリピンは公用語として英語が話されていて、かつアメリカの統治下にあったのでアジアでは最も正統的なアメリカンを話す人々が多数いる。さらには人件費は日本の8分の一程度で、大学卒の優秀な人材を安い賃金で雇うことができると。英語を使ったビジネスを行うにはアジアではフィリピンは最高の場所であると。実際世界中から安くて良質な英語を話せる労働力を求めて外国企業が集まってきていました。
ただ治安は10年ほど前よりも格段にいいとはいえ、銃社会ですので、街全体には緊張感があって、生活環境は決して良好とは言えません。ITパークのすぐ近くで、タクシーの運転手から金を脅し取られたこともあります。危険な場所がたくさんあります。しかも人件費は安いにしろ、物価はそこまで安くはないなというのが実感でした。もちろん現地のフィリピン人と同じレベルの生活をするのであればそれなりに安く過ごすことはできますが、日本での生活レベルを維持しようとすれば、せいぜい3割ほど安いかなという程度。ましてや今の円安では円の恩恵は受けられません。それと。東南アジア全般に言えることですが、労働力の質は日本と比べると格段に落ちます。もちろんその中には優秀な人も数多くいるわけですが、いい加減な場合のほうが多いです。
セブがリゾートであることは間違いありませんが、リゾートホテルに泊まってスキューバダイビングに行ったりするだけではフィリピンの本当のことはわからないと思います。確かに海は綺麗ですけどね。
ほかにも多くの問題がありまして、パートナーがバラ色の夢を語るフィリピン事業に対して、そこまでの楽観的な確信はもてませんでした。
この事についてはおいおい書いていきたいと思います。
ITパークでの視察
セブについてホテルで一泊したあと、I 氏とセブでの事業を行う場所の下見に出かけました。
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我々が事業を行いたいと考えていた場所。
それは主に外国人向けに造成されたITパークというエリアでした。
大きなビルの多くがたちならび、アメリカのコールセンター。またその他海外の英会話事業を行う会社などが多数入居していました。
フィリピンが外国資本を誘致しようとして作り上げたエリアです。私はビジネスパートナーのスケジュールにしたがってついていきました。
英語が全くわからないために、彼の言いなりで動きます。
英語が話せなかったことが今となってはとても悔やまれます。
彼がいないとなんの用達もできないので次第に依存心を深めていったからです。
批判的に見ることができなくなっていました。
ITパークにいってわかったことはビルのオーナーの多くが華僑であるということです。
非常に強い横のつながりがあるということが見て取れました。
なぜ分かるかというと、あるビルに行って設備や、入居条件等を聞いて、ほかのビルに行くと既に私たちの情報が伝わっているのです。
中国人は手ごわいなあってその時初めて感じました。見るからに信用ができそうのない人たちばかり。
経済を握っているのが華僑であることを実感させられました。
全く英語がわからないので私自身は人物評価もい物件の良し悪しもわかりません。
それで事業についてですが、私は友人としてビジネスパートナーを助けようという気持ちは十分にありましたが、
まだ具体的に何をどうやるか、ということのプランは固まっていませんでした。
そこで私がお目付け役として出向いたわけですだが、全く用をなしませんでした。
結果としてお任せということになってしまいました。
それが後で大きなつけとなって帰ってくることになりましたがしかしその時には予想していなかったことでした。
パートナーについて
私のパートナーとなった人間は英語が堪能で、教育業界ではある分野のエキスパートでした。
私はそういう実績を知っていたので彼を信頼していたのです。
また彼はある教育ブランドの日本総代理店の社長をしておりました。それを乗っ取られるなどしたということで私は相談を受けたので、
彼を助けようとしたのです。
そういうことでしたので。
当然彼はマネジメントができると思い込んでいたのでしたが、
あとからはっきりとわかったのですが。
彼にはそういう能力は全くありませんでした。
しかしその時は全く予想をしていませんでした。
不覚です。
わたしはセブに生まれて初めて行き、初めて体験した様々なことに幻惑されてしまっていました。
そして言葉が話せないということは大変なハンデでした。
なのでそういうことに全く気付かなかったのです。
私は彼がいなくては何もできなかったわけですし。すべて彼の言い分をそのまま受けとり、その内容にそってわたしは動くようにしました。
パートナーが痛風の発作!
しかも彼は痛風の持病がありまして、セブで一緒にいる時に痛風の発作が起きてしまったのです。
彼は歩くことが全くできなくなってしまいました。
私は彼に感情移入をしていましたのでますます彼を助けてあげたいと強く思うようになりました。彼の今までの心労が思いやられました。
今まで相当追い詰められていたんだろなと。私は客観的な判断能力を失ってしまいました。
ついに深みにはまっていくことになったのです。
薬を飲んだところで一旦発作が起これば、二週間ほどは治らないのです。それでもリサーチはしなくてはいけない。
わたしは車椅子を借りて、彼をそれに乗せて、その車いすを押しながら事務所にふさわしい物件などを見て回りました。そのほかはタクシーを活用して、動き回りました。
ともかく私もそれなりに必死でした。I氏にしてみても今回がラストチャンスであることを十分にわかっていると思っていました。彼は追い詰められていましたし、彼がなんとかもう一度再起を果たしたいという気持ちで頑張っているということを私は疑いもしませんでした。だからこそ私も彼のために一生懸命になったのです。
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