どうも最近は日本の文化や風習が気になって仕方がありません。東南アジアに出かけて以来のことなんですが。私は海外にはほとんど出かけたことがなく、その頃のは日本の文化といっても当たり前のことで、別段興味もなかったんですが、ここ数年海外に頻繁に出かけるようになって初めて日本の良さに気づきました。
それで日本人独特の精神文化として「浪花節」というものがあります。わたしは浪花節というと古臭いイメージを抱いていましたが、今更ですが、聴いてみるととても面白いです。
広沢虎造の伝記を読む
それで浪曲といえば二代目広沢虎造だろうということで、先日二代目広沢虎造の伝記を読みました。
実に面白かったです。
浪曲というのは昔は芸能の中でも随分と蔑まれていたものらしくて、落語や講談に比べても遥かに格下の演芸だったんですね。
明治26年、講談・落語・浪花節の三派合同の大会が開かれた時に、開会直前になって「大道芸人であった浪花節と同席するのは汚らわしい」と言って落語家と講談師が浪花節を出すのを反対したというエピソードがこの本に書かれています。
しかし浪花節は明治後期からその名声を高めます。
そんな中でも最も輝いていたのが二代目広沢虎造です。尤も初代広沢虎造はあまり売れていませんでした。
二代目が弟子入りした広沢虎吉が引退したあと、その初代広沢虎造が虎吉を襲名。宙に浮いた名前を二代目が受け継いだという因縁があります。
ですから二代目と言っても実質は初代です。そして二代目はその後関西から関東へ活動の拠点を移し、独自の芸を築き上げました。
雪によし
月にまたよし花によし
四季に風情の江戸の町
ここはご城下神明前
芝白金の三光町に
産声上げし快男児
昭和の御代までその名を残す
それは廣澤虎造よ
と吉川潮が書いているとおりです。
広沢虎造は明治32年5月18日。芝白金三光町に金田与助・はん夫婦の三男として誕生。小学校5年生の時に聴いた木村重松「慶安太平記」のレコードを聴いて、浪花節の面白さに開眼。
この本ではそれから金田信一(のちの広沢虎造)が浪曲師になるまでとなってからの様々なエピソードが綴られていくわけですが、その中で語られていく庶民に根付く芸能の歴史が興味深いです。
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浪花節が新鮮なのはなぜ?
浪花節といえば今はもう古臭いだの封建的だのと言われています。実は私もそういう偏見を持っていましたが、とてもとても。そんなものではありません。日本では日本の伝統文化を破壊しようとする勢力が蔓延っていて、何とかして日本を貶めようと躍起になっていますが、その被害を受けたものの一つが浪花節だったと気づきました。
いまはネットが普及しましたので売国奴的マスゴミのことも多くの方々の知るところとなりましたが。
しかし浪曲って座るか立つかして声を出しているだけですから、確かに動きがないですから。ラジオはいいですが、テレビが勃興してくるに従って衰退したという側面はあると思います。
実際時代は浪曲から漫才に移りますし、浪曲師から演歌歌手に商売替えをした三波春夫や二葉百合子、村田英雄などもいました。
それでも今聴いてみる浪花節には私たちが今もなお受け継いでいる日本的な道徳観や倫理観が横溢していまして、私たち日本民族の精神的なレベルアップに貢献したと私は思いました。
私はかなり面白いと思いましたね。広沢虎造って素晴らしいですね。なんといっても昔の大スター!若者にもぜひ聴いて欲しいですね。
今は寄席に行っても講談は出てきますが、浪花節は出てきませんよね。だから私も知らなかったんですが。
これは再度広める必要がありますね。
プロの若手のジャズミュージシャンと話をした時に、1900年代前半のジャズミュージックがとても新鮮で新しい音楽に聞こえるという話をされたことがあって驚いたことがありますが、でもいいものはいいんですね。浪曲も時期的には同じ頃に人気だったものです。私はマニラから帰ってきてから聴き始めました。フィリピンで浪曲のような芸能が花開くとは到底考えられません。日本的美意識が全開です。そういうことが感じられるだけでも海外に出るのはいいことだと思います。
ある方が浪曲は日本のオペラだと書いていましたが、さもありなん。本当に素晴らしい芸だと私は思いました。
今は時代も違いますし、また浪曲の底に流れる道徳的価値観の全てを肯定する必要もないとは思いますが、古臭いと馬鹿にしながらも湧き上がってくる郷愁と安心感と心地よさはまさに・・・・
こたえられねえなああああ
浪曲の表現する世界が私の心の中に脈々と流れていることを思い知らされます。
ちなみにフィリピンの友人たちに聴かせたら、ブルースみたいだって言っていました。
ブルースかあ!たしかに、
みなさんもぜひ一度聴いてみませんか?
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