日本人がフィリピノが好きなのはフィリピンパブのせいだけではないですよ。フィリピンと日本は地理的にも近く、いろんな交流がありました。今回はそんなことを少し書いてみます。
目次
日本とフィリピンの距離は非常に近い
フィリピンは日本から最も近い東南アジアの国で、私たちの感覚で言うと飛行機でマニラやセブまで4~5時間。時差はわずか1時間です。
東京からフィリピンのマニラまでの直線距離は、2995 kmということは時速100キロのスピードの船であれば、30時間もあればマニラに着いてしまうんです。
感覚で言うと北海道網走から沖縄の那覇までは2477.948 km!約2500キロです。それよりも少し遠いぐらいかな。
日本の隣国というとストーカーまがいの朝鮮や支那ばかり思い起こされますが、じつはそれは大きな間違いなんです。フィリピンは非常に日本に近い国であり、歴史的に言っても日本・フィリピン両国の交流の歴史は実に長く深いものがありました。

引用元
http://xn--dck8azfcd7jj6d.net/phillipine.html
日本とフィリピンの緊密な交流について
フィリピンとの交流の歴史を隠蔽した自虐史観
それを感じられる日本人が少ないのは第二次世界大戦で日本がアメリカに敗れた結果日本が直轄の植民地となったからです。
日本を二度と立ち直れないようにと画策するアメリカの自虐史観に基づいた教育の結果です。教科書では今なお真実を覆い隠した内容のことが書かれています。実に反日的!
そんな内容を教えている先生たちが反日的になるのもやむを得ませんが、教えられる子どもたちにとってはいい迷惑です。
そして今では信じられないかも知れませんが、例えば平成の初めのころまでは歴史小説なんかでも国外の影響が全く無視されたものなんかが大半を占めていました。何故か国外の影響は一切なくて、日本国内だけの力学で事件が起きていたように書かれています。大御所だった司馬遼太郎なんかもその典型で、彼の書いた「竜馬がゆく」という小説などは小説としては面白いにしろ、坂本龍馬がアジア地域で奴隷貿易や麻薬貿易を行っていたジャーマン・マセソン商会の手先として暗躍したことなどは一切書かれていません。海援隊なんて日本初の商社とかなんとか言われていますけど、もちろんこれはジャーマン・マセソン商会が外国の武器を日本の革命勢力に調達するために作られた単なるトンネル会社です。
明治維新の志士とか言いますが、当時は彼らはテロリストで、幕府が支配していた日本国内を動き回れる状態ではありませんでした。それなのに彼らが日本中を動き回れたのはイギリスの艦船に乗って動くことが出来たからです。そして彼らを操った外国勢力の力によって革命は成し遂げられたのです。明治維新という美名のもとに、英国による間接植民地化が進んだというような支配書にとって都合の悪いことなどは明治時代にはタブーとされていました。、第二次世界大戦後は更にアメリカなどによって自虐史観が植え付けられ、日本の栄光は踏みにじられ、日本のアジアに対する貢献は徹底して隠されていました。フィリピンとの長い交流の歴史や彼らに対する日本の貢献などについては、その真実が明かされ広まるにはインターネットの普及を待つしかなかったんです。
その残滓が今のマスゴミです。彼らは国を売って売国の手先となって我々を騙し続けたんです。
我々はそれに騙され続け、多くの人達がそこから逃れることはできませんでした。
それほど強烈な思想統制が行われてい他時代のそんな歪曲された事実を元にして書かれた小説などは今となっては読むに耐えないものですが、未だに50代以上の日本人の多くが洗脳されたままになっています。
皆さん海外で日本人がとても尊敬されていることをご存知ですか?気がついた方も多くいらっしゃると思います。戦争は悪だと断じる売国政治家売国マスゴミの洗脳行為で日本人全体が犯罪者であるとのプロパガンダを鵜呑みにさせられた日本人には信じがたいことだったと思いますが、今や日本人の多くの人たちが真実に気づき始めています。
悪馬のキリスト教はマニラから布教の魔の手を差し伸べた
そんなことなんで日本とフィリピンの交流については知らない人が多いのですが、特にフィリピンと日本の間にはスペイン人にとって都合の悪い黒歴史がありまして、特にそれはキリスト教に関してです。なんといってもフィリピンはアジアにおけるキリスト教布教と奴隷貿易麻薬貿易の一大拠点でした。フランシスコ・ザビエルという今は聖人と言われている坊主がどんなことをしたのか。それについては本人の手紙も残っていますから、様々なことがわかっています。読むとこいつ商人か?って記述もありますから、面白いです。もちろんそうじゃない部分が大半ですけど、ザビエルを悪魔と呼ぶ人達も多いということを知っておくと歴史の理解は深まると思います。
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戦国時代には九州の大名は鉄砲に使う火薬を手に入れるために国内の女性を奴隷に売りましたがその手引をしたのも当時のキリスト教の宣教師たちです。彼らは人買いであり麻薬の伝道師だったんです。ご存知でしたか?
当時はペルーでしか採掘できなかった火薬の原材料を購入するためにその対価として日本女性が売られていきました。火薬がなければ鉄砲は無用の長物でしたので、戦国大名たちは争って火薬を買い求めたのです。当時スペイン人やポルトガル人はキリスト教を使っての植民地獲得・支配を目論んでいましたので、そんな戦国大名の弱みに付け込んで悪いことはなんでもやったんです。日本人はたまたま潔癖だったんで麻薬に汚染されることはありませんでしたが、支那では阿片が蔓延し、アジア貿易の利益の大半を占めるようになりました。キリスト教はあくまでも植民地支配を効率的に行うための精神支配の道具だったのです。
その面影はフィリピンの教会に刻印されて陰鬱な雰囲気をとどめています。私はフィリピンに行って幾つもの教会を回りましたが、すべての教会がどんよりしていて殺伐としていました。日本のキリスト教のイメージとは全く違います。フイリピン最古の教会と言われるサン・オウガスチン教会。陰鬱でした。写真を拝借した方のブログには好意的な意味ででハリーポッターの世界そのまんまと書かれておりましたが、まさに私の方では悪い意味で悪魔の世界だと思いました。

引用元
http://yanodaichi.blog.jp/archives/1042616600.html
戦国時代末期多くの日本人が移り住んだフィリピン
日本でいうキリシタンの反乱についても当然フィリピンからの応援と指令が来ていたわけで、日本国内の戦いとはいえ、日本とフィリピンは密接な関係があったんです。16世紀末の豊臣時代には、スペイン領フィリピンとの朱印船貿易が行われまして日本町があり多くの商人やその家族が住んでいました。交易も当然盛んだったわけです。豊臣秀吉以来禁教令が出されてキリシタンが追放されると、多くのキリシタンがフィリピンに逃げ込みます。有名なのは高山右近ですが、彼が何故フィリピンに行ったのか、司馬遼太郎のようなピンぼけの歴史私小説しか知らない人にとっては謎でしかありません。
マニラにある高山右近像↓

引用元
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16362/20150622/takayama-ukon-beatification.htm
私がマニラで会った日本人コンサルタントもよくわかっていませんでした。日本に施されたの自虐洗脳教育の恐ろしさを垣間見る思いです。
彼がマニラに行ったのはマニラが日本人キリシタンの集結地であったからです。ただし日本に比べると病原菌も蔓延していますから、高山右近はマニラについて病気にかかり、程なく亡くなっていますが。
徳川時代になっても幕府を倒そうとする勢力はマニラやセブ近郊で兵を養っていました。関が原の戦いの負けた西軍が落ち延びた先も日本国内だけではなく、多くの敗残兵がフィリピンに渡ったのでした。
江戸時代以降、日本の鎖国により交易は衰え、フィリピンとの交流は途絶えますが、その間に現地に残った多数の日本人の遺伝子はフィリピン国内にばらまかれ、現在は日本人のDNAをそれとは知らずに持っているフィリピノがたくさんいると思われます。

引用元
http://www.gekiyaku.com/archives/30411132.html
今はスペインのラテン系、アメリカの白人系、そしてスペイン統治時代から経済を握っていたサングレイと呼ばれた中国系。華僑の魁ですね。それと一時は外国勢として多数を占めていた日系。これらが数百年。というかわずか500年以内に現地土着人と交じりあって出来たのが現在のフィリピン人なのです。
明治時代からも日本人の多くがミンダナオ島などに移民を行いましたが、現地に行くとちょっと見には気づきませんが、日本の精神がいたるところ息づいています。ミンダナオ島の首都ダバオとか、日本人が戦前に大きく根を張っていたところでは日本的な謙虚さが漂っています。意外や意外今に至るまで日本の痕跡は濃厚に残っています。
私は肌が浅黒いフィリピノを何故ここまで日本人が愛するのか、フィリピンに行くまでは理解できていませんでしたが。歴史的に見ても私たちは兄弟なんです。このことを今回は書いてみました。
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