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マニラにいった時にリサール公園というところに行きました。この場所はかつてフィリピンの英雄であったホセ・リサールが処刑された場所です。わたしが行った時には公園自体工事中の場所が多くてそれほどいい場所とは思えなかったんですが、でもわたしにとってはとても思い出に残る場所になりました。ホセ・リサールの生涯などもまとめながら楽しかったあの時のことをかいてみたいと思います。
リサール公園の思い出
リサール公園はただのだだっ広い公園です。人によっては暇だったら行けば~というレベルの公園ですね。ただわたしはホセ・リサールというフィリピンの英雄に興味がありましたので、マニラに住んでいる日本人の方やわたしの恋人になってくれたフィリピノと行ってきました。
一つ言えることはかなり汚らしいマニラの中ではとても綺麗に整備されているということです。日本ではあたりまえのことですがフィリピンで普通に清潔に保たれているというだけで凄いなあって思います。浮浪者もほとんどいません。
ただ最近は駆逐されたような話を聞きますが、わたしが行った時には小学生ぐらいのカメラ小僧がいて、大人の格好をして大人びた態度で接してくるんです。そしてその子は写真を撮ってあげるとかなんとか言い出して私達の写真を勝手に撮り始めました。また私達のカメラで写真を撮ってくれようとしたりするんです。この写真とか。
ラプラプ酋長の像の前で↓
そしてもちろんそれはただの善意ではなくて、営業活動です。私達が公園を一周する頃にちゃちい紙で額を作って私達のところに売りに来ます。
そして一枚200ペソでどうかというんですが、マニラ在住の方はふっかけてきてるんだからやめといたほうが良いと言うんです。
でもわたしは買うことにしました。恋人との写真が欲しかったからです。
それで面白いことに、写真は5枚ありまして、一枚だけ買おうとしましたが、細かいお金がなかったんで、500ペソの紙幣を渡しました。
それでお釣りをもらえるのかと思ったらその5枚の写真をすべて私に押しつけて脱兎のごとく逃げ出すではありませんか。
結局当時のレートで日本円にして1300円ほど。一枚260円ぐらいで写真を買うことになりました。
その写真を私は今でも大切にとっていますが、写真を見るたびにこの事を思い出します。
私は結構いいカモだったんだと思いますが、手間隙掛けてあれぐらいじゃあまり足しにはならなかったんじゃないんでしょうか。今あの子はどうしているんだろうと思ったります。フィリピンでは学校に行けなければ先はありません。フィリピンの現実を見る思いがしました。
ホセ・リサールとは
リサール公園にはモニュメントとしての巨大なリサール像とラプラプ酋長が建っています。
上記の写真はラプラプ酋長のところで撮ったものですが、この二大英雄がフィリピンで顕彰されているという事実は非常に興味深いです。
今回はホセ・リサールについてまとめてみます。
下に遺骨が眠るリサール記念像

引用元
http://www.geocities.jp/bane2161/risa-ru.html
ホセ・リサール(Jose Rizal)は、アメリカで南北戦争が始まった年の1861年6月19日生まれ。
ラグナ州(Laguna)カランバ(Calamba)の裕福な中農の家だったと言われています。
父フランシスコ・メルカドと母テオドラ・アロンソの11人兄弟の7番目として生まれました。フルネームはホセ・プロタシオ・メルカド・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)といいます。
父方のメルカド家は中国・福建省の晋江から17世紀にフィリピンに渡りました。そしてフィリピン先住の女性と結婚したので父親は中国人とフィリピン人の混血。母方のアロンソ家はスペイン人とフィリピン先住民の混血の家系です。
当時のフィリピンはスペインの残虐な支配下に置かれ、フィリピン人はひどい差別を受けていました。リサールの母親がスペイン人の役人に挨拶をしなかったというたったそれだけのことで警察に逮捕されて、2年間も牢獄につながれるということがありました。このことがわずか5歳のリサールの心にある選択を促します。
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リサールはまさに天才で、最終的には数十カ国の言語を操り、様々な専門分野で一流の働きをしました。 医師・作家・民族運動の指導者。さまざまな肩書が彼にはついています。その初めとして16歳でマニラのアテネオ大学(Ateneo de Manila University)で学士号を取得し、土地測量の技術を学びながら、1611年に創設され、アジア最古で最大のカトリック系大学サント・トーマス大学で哲学と医学(とくに眼科)を学びました。しかしそこでもフィリピン人に対する蔑視が甚だしく、ドミニカの教師によるフィリピン人蔑視を感じたリサールは大学を去ることを決意します。
その後、家族の反対を押し切って、スペインのマドリッドに留学します。
そしてマドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid, UCM)で医学の勉強を続けました。また1883年にフリーメーソンに加入。1884年に医学コース終了。1885年6月19日に医学博士の学位を授与されました。その後はハイデルベルク大学とパリ大学でも勉強を重ねます。このように、彼は医学、文学、理学、科学、化学、絵画、彫刻その他の学問を修めつつ、その間、フィリピンの自立を目指す運動にも加わります。
リサールは日本との関わりも深く、日本にもしばらく滞在、日本人の恋人らしき人もできました。末広鉄腸と意気投合し、しばらく一緒にいたこともあります。
1887年、リサールは「ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)」「我に触れるな」をベルリンで公刊します。この小説でリサールの名声は一躍高まります。そして 1888年2月香港に渡り、同月日本に来日し4月まで東京都内に滞在しているのです。
これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。

引用元
http://japanguidepost.blogspot.jp/2009/07/hibiya.html
彼は日本にはとても好意を持ち、「日本とフィリピンとは緊密な交渉を保たねばならないであろう」と言った内容のことを手紙や日記などにも書き残しています。
そして1888年4月13日アメリカ経由でヨーロッパに向かいますが、ロンドンに滞在した1891年、『ノリ・メ・タンヘレ』の続編として、『エル・フィリブステリスモ(暴虐の支配)』をベルギーで発行します。この小説は彼の名声を不動のものにしました。
スペインの残忍さを徹底的に暴き、フィリピン人の惨めさを綴ったリサールのこの二つの小説は、後の革命の導火線となったのです。
リサールが革命の父と言われる所以です。
1892年7月にマニラに戻ったリサールは、平和的革命要求を掲げ、市民運動組織「フィリピン同盟」を創設しました。
こうした革命運動はスペインが容赦できるものではありませんでした。1892年7月に逮捕され、ミンダナオ島ダビタンで幽閉の身になります。
ここで彼は学校と病院を作って、現地の住民のために尽くしたと言われています。
その後、1896年8月、キューバでの医療活動を志願してスペインに渡ると同じ頃に勃発したフィリピン独立運動、カティプナン反乱の首謀者として逮捕され、同年12月30日、マニラのバグンバヤン(現・リサール公園)で銃殺刑となり、36歳の短い生涯を閉じました。
公園にはリサールが処刑場まで歩いたその足跡が型どられて残されています。

引用元
http://eurasiabylcc.blog.jp/archives/18643813.html
まとめ
ホセ・リサールというフィリピンの英雄は今もフィリピンの人達に愛されています。日本人の中にはフィリピン人を格下に見る人も多くいますが、中には驚くほど優秀な人もいますし、フィリピン人のプライドの高さは相当なものがあります。マゼラン以来フィリピンはスペインやアメリカに支配され続けてきまし、貧富の差が極端な国ではありますが、ホセ・リサールやラプラプ酋長を崇敬するその心の奥底にはフィリピン人としてのプライドが垣間見られて私は感じ入るものがありました。もうしばらくすると人口で日本を抜く勢いのフィリピン。経済成長率も非常に高いです。今後どのように変化していくのかとても楽しみです。
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